新年早々、インフルエンザ、お正月ぼけに時差ボケでスロースタートになってしまったこと、 さらに、途中で内容を変更したので、 掲載がのびのびになってしまったことご容赦ください。 おわびに、枕をひとつ。 当方、ラボに来た当初は「のぞむ(NOZOMU)」ではなく、「ニズモ(NIZUMO?)」 と間違った名前で呼ばれていたことはお話しましたね(既刊留学便りを参照してくださいね)。 その訳がわかりました! 当方おどろいたのですが、 ラボのみんなは「日本」=「相撲(SUMO)」と思っていたらしいのです。 それで当方の名前もNOZOMUではなくNISUMO(ZUMO)と勘違いしていたようです。 到底日本の国技を正当に理解しているとは思えないので、 日本のことはいまだに「ちょんまげにふんどし」くらいにしか理解していないのかもしれません。 いずれお話する機会もあると思いますが、 ごく一部の知識人を除けばアメリカ人の国際社会に対する理解度はその程度だと感じます。 さて、アメリカに来て1年余経ちました。 この留学便りでは 「あれ、日本と違うな」 とか 「日本から見ていたアメリカのイメージと違うじゃない?」 といった感想を中心にお話ししてきました。 今回はそのなかで「子供の教育(しつけ?)」についてお話したいと思います。 昨年7月に日本とアトランタを往復したときのことです。 デルタ航空による東京アトランタ直行便がとれず、 JALの東京ーダラス便でアメリカへ帰ることになりました。 夏休みの折、機内は満員、 JALだったせいもあり大半は家族連れ(日本人またはおそらくアメリカ人)でした。 この空の旅は最悪でした。 子供たちが騒ぐわふざけるわ、 と眠ることはおろか本を読んだり映画を見ることすらままなりませんでした。 ただ、ひとつ気づいたことがあったのです。 それは騒いでいる子供はなぜかみんな日本人でした。
![]() アメリカ人の子供のほとんどはおとなしく両親の間で座っていました。 さらには、 日本人の両親も自分たちの子供が騒いでいても注意すらしないのです。
![]() 最後にはフライト・アテンダントと、 傍らにいたアメリカ人と思われる男性 (この人も子連れで父親、 このお子さん(赤ちゃん)の周りで日本人の子供たちが暴れ回っていたのです) が注意していましたが(英語がわかるはずもなく)、 全く言うことを聞きませんでした。
![]() 日本の子供たちは悪い、と決めつけるつもりはありません。 日本にも礼儀正しい子供たちは沢山いますし、 アメリカにもしつけの悪い子供たちはいることでしょう。 ただ、日本の子供たちの電車の中でのマナーなどこういった話は最近よく耳にすることです。 どうしてだろう?と考えてしまいます。 この事について自分の感じたことを話してみたいと思います。
1)日本の家庭 昔は「地震雷火事親父」といいました。今では死語でしょう。 当方が子供のころはまだ日本の家庭も(平たく言えば)封建的な一面を持ち、 家族の長として父親が君臨し父権も大きなものでした。 しかしいつごろからかそれが崩れていったような気もします。 戦後日本は、敗戦の結果、戦争の時代すべてを否定することから始まっているような気がします。 それはそれでしょうがないことと思います。 しかし「なぜ過ちを犯したのか」といった検証もなくすべての過去を封印し、 国民すべてが「自分たちは被害者である」という意識から 反省をしてこなかったのではないでしょうか。 確かに、この世の中に「良い戦争、肯定されるべき戦争」はありません。 しかし「戦争が悪かったんだ、当時の軍が悪かったのだ」 という心理の裏には 「自分たちはなにも悪くなかったんだ」 という単なる責任転嫁しかないように感じます。 もちろんドイツにおいてもナチスに責任を負わせることで ドイツ民族の誇りを保とうとしているわけですから 日本に限ったわけではないでしょう。 またこのように感じるのは自分が戦争を知らない世代だからかもしれません。 しかし、何が正しく何が間違いだったのか考えることなく、 すべてをいわば「臭いものにフタ」といった形にしてしまったことは、 道徳的無反省という今日の態度につながっているようにも思います。 さらに日本の高度成長はそれに拍車をかけたかもしれません。 日本の経済的な復興という大命題のもとに国民が一致団結して働いてきたわけです。 私たちの世代はその恩恵を十分に預かったわけで、 それに感謝しなければなりません。 ただ、勤勉と謙譲を美徳とした日本の国民性が、 この高度成長期の間には企業そして日本経済に向けら れたことは否めないように感じます。 日本経済が傾いた現在、 人々の心の中にその国民性に対する空虚さが蔓延してしまっているのではないでしょうか。
2)日本の誤解 もう一つ感じることは誤ったアメリカ文化の輸入です。 日本は音楽、映画、娯楽などすべてアメリカの楽しい文化を輸入してきました。 これはこれで物質的豊かさとしては良いことかもしれません。 ただ、日本の輸入してきたアメリカ文化はアメリカの本質ではありません。 アメリカは、アメリカのとって「お金になる」「享楽的で刺激的」な文化を輸出したと思います。 これはアメリカ資本主義、商業主義からすれば当然でしょう。 しかし実際のアメリカのテレビでは 「平気で人を殺したり」「汚い言葉を吐くような」 また「子供たちに不適当な性的描写のある」番組は容易にアクセスできないように、 また家庭では子供たちに見せないようになっています。 グラミー賞を例にとりましょう。 昨年グラミー賞を総なめした「アメリカン・ビューテイ」という映画があります。 当方はケーブルテレビで観ましたが、 はっきり言って面白くもなんともありませんでした。 なんじゃこりゃ、てなもんです。
どうしてこの映画がグラミーをとったのかと。 答えはこうでした。 「さあね、わけのわからない映画だしね。 ドリーム・ワークスがお金持ってるからじゃない?」 「Holywoodはweird(異様、奇妙)だからね。」 ![]() この映画の日本における評価は知りませんが、 当方が日本にいたころは、 ある映画がグラミーをとれば「グラミー賞をとった素晴らしい映画」といった文句とともに、 これこそアメリカ文化の先端だ、 本質だという宣伝がなされていたと思います。 このこと一つとってもわかる通り、 アメリカ人の生活意識は日本の輸入した「アメリカ文化」とは大きくかけ離れたものと思います。 アメリカから輸入した文化からすれば、 アメリカは「自由放任」「子供の自主性の尊重」というイメージかもしれません。 しかしそれは違います。 日本は誤った「アメリカ個人主義」を輸入したと思います。
3)アメリカの家庭 当方べつに「君のうちではどうやって子供の教育してるの?」 なんて聞いて回ったわけではありません。 しかし日頃の会話などから察するところ、 アメリカの家庭は平たく言うと、 想像以上に「封建的」と感じます。 アメリカの親は、確かに人前では子供を「一個人」として尊重しています。 彼らは「子供なんだから」といった言葉は使いませんし、 人前で叱ったりもしません。 前述の機内でも、年上の子は自分の妹、弟の面倒を見ながら静かにしています。 親もあれこれ口うるさく注意している様子はありません。 しかし家庭(家の中)という教育の場では、 想像以上に父権が強く過ちを犯した子供に対しては鉄拳も辞さない、 といったことも耳にします。 当方は暴力を肯定するつもりはありません。 ただ子供は何が正しく何が間違いかを知らないこともあります。 次世代にこれらを教えていくのはわれわれの世代の責任であり、 そのためには時として厳しい態度も必要と思います。
4)アメリカの教育;集団生活における自己の確立 もうひとつアメリカの子供の教育の大きな特徴はボーイスカウト・ガールスカウトと思います。 当方のラボの同僚、またその子供たちは ほとんど(白人に限るかもしれません)ボーイスカウト・ガールスカウトに参加しています。 ![]() <<これは日本のボーイスカウトです。>> この活動のなかで、 集団社会の中での協調性、 上下関係 (封建的ヒエラルキーではなく、上級生から学びこれを下級生に伝えるという教育、 先輩が後輩の面倒を見る) を通して自己の確立、責任を学んでいくと思います。 さらに自然の中での人間・自然との共存、 ボランテイア活動といったことを子供のころから学んでいくのです。 このことは、 家庭における教育とともにアメリカ社会のなかで大きな役割を果たしていると思います。 Fortuneのトップ50として名を連ねる企業重役のほとんどが ボーイスカウト・ガールスカウト出身というデータもあります。
5)アメリカの教育;ボランテイア活動 アメリカ社会のもう一つの特徴はボランテイア活動が根づいていることです。 例を挙げましょう。 アメリカでは医学部はpost graduate schoolです。 いわゆる日本の大学教養課程はアメリカではcollegeと呼ばれ、 多くは4年制です。 その後にビジネススクール、ロウ・スクール(法律学校のことです)、 医学部といったpost graduateの学校に進学する人もいるわけです。 その医学部入学の時にはボランテイア活動の有無が大きく評価されます。 はっきり言えばボランテイア活動をしていなければ医学部には入れません。 たとえば当方の同僚で医学部PhDコースの学生は、 collegeの学生の頃2年間、 病院の救急部でボランテイアとして働いていました。 現在医学部へ向けて勉強しているworking studentは、 ラボで研究の仕事を手伝いながら、週何日か仕事が 終わった後から夜にかけてchildren's hospitalでボランテイアとして働いています。 今年の8月から医学部に入学が決まっている同僚は、 火水木曜日に夜間学校でボランテイアとして生物を教えています。 昨年12月22日に「教育改革国民会議」では最終報告として17の提案をまとめ発表しました。 そのなかには 「教育の原点は家庭」 「小、中、高では奉仕活動を全員で行うように」 「18歳以上では奉仕活動を検討」 といった項目が見られました。 この事自体良いアイデイア、改革といえるでしょう。 ただ一部の報道などでは 「18歳以上の国民の奉仕活動の義務化」については 「元来奉仕活動は自発的に行うもので法で設定することは将来の徴兵制につながる、 時代錯誤である」 といった意見もあったようです (このため、義務化の文字は最終報告では削られました)。 たしかに会議の委員の意見でも、 奉仕活動の内容は 「駅での缶拾い」から「農作業の手伝い」「施設でのボランテイア」 と千差万別だったようです。 自分の感覚からすると、 駅での缶拾いなど特別なボランテイアではなく常識の範囲内のように感じるのですが・・ 当方はボランテイアの義務化が徴兵制につながるとは到底思えませんし 時代錯誤とも思えないのですが・・ どうでしょうか。 たしかに義務化は行き過ぎかもしれません。 ただ義務教育の基本は 「子供たちは学ぶ義務がある」のではなく 「大人は子供たちにちゃんとした教育をする義務がある」ことだと感じます。 現在の教育の方針の中では 「ゆとり」「子供の自主性」を掲げるあまり、 この大切なことが置き去りにされていると感じます。
ありません。 「自分がボランテイアしたことないくせに、 それなら人に強制する資格なんかないね」と言われそうですね。 前述の最終報告に対する朝日新聞の論説もそういった意見だったように感じます。 でも当方はそう思いません。
6)日本とアメリカ;性善説と性悪説 ここでは物事をシンプルにするため画一的に話したいと思います。 日本では性善説に基づいて物事を考えているように思います。 それは非常によいことですが (人を疑ってかかることがないという点です) 一方では(集団として)自己批判的に、 また時として「(他人には)口をつぐんで見過ごす」ことになりすぎるように思います。 これに対してアメリカは性悪説に基づいているように感じます。 これは多民族国家ゆえに共通の価値観もなく仕方ないことかもしれません。 しかし一方では「人間はミスを犯すもの」と人間の不完全さを認め、 これがリスクマネージメントにつながっています。 同様に人間の不完全さをカバーするための教育システム作り(ボランテイアなど) も盛んなように思います。 日本はといえば自分に対して潔癖すぎやしないでしょうか。 これは、自分たちの歴史(自分たち日本の失敗)を封印し検証することなく、 非生産的な批判のみに終始する現状につながっているようにも思えるのです。 いかがなものでしょう。
7)自己の確立と責任 社会生活の中でもっとも大切なのは「責任」ということではないかと思います。 責任は英語ではRESPONSIBILITYといいます。 これはresponse(対応)する能力という意味です。 自分の行動に対する他人からのresponseに対して開かれた存在であり、 きちんと対応できることが責任なのです。 したがってこの責任という言葉には 「社会の中で自己が相対的なものであること」 そして 「自己がきちんと確立されていること」 といった意味が含まれていると思います。 そのような事を学ぶうえでボランテイア、ボーイ・ガールスカウト活動という場は、 アメリカ社会で大きな機能を果たしているように思います。 こう述べてくるとアメリカ礼賛のように感じられるかもしれませんが、 そうではありません。 かつての日本は家庭、そして村社会というコミュニテイがそういった機能、 つまり子供たちの社会性・協調性を育み、 責任と言うことを体感させる役割を果たしていたのではないでしょうか。 そういった仕組みが失われた現代日本では、 真剣に次世代の教育を考えるときが来ていると思います。
1)朝日新聞12月23日朝刊 2)「戦後思想との対決」小堀桂一郎 3)週刊文春1月18日号「ニュースの考古学」猪瀬直樹 4)「問いかけるイエス」荒井 献
彼は、パキスタンで生まれバングラデシュで育ち、 ある理由で家族みんなでアメリカに移住、 アメリカ市民権を持っている23歳の若者(Muslim)です。 彼はアメリカ社会ではminorityであるがため、 時としてしごく客観的な意見を言ってくれます。 「今ラボにいるアメリカ人(白人)は、 みんな典型的な(良き)アメリカ家庭かな、 いわゆるfamily-orientedだね。 ただ大都市にはそうでない家庭もある。 そうだな、 両親ともに働いていて、 忙しくて子供にかまっている暇なくて・・とかね。 そんな子供たちは家族からindependentだけど他人に対してもindependentだな。 周囲に無頓着で、 自分でなんでもできると思っていて高慢でselfishだな、 わかるだろ・・」 (()内は当方の注釈です)
あとがき・その2;
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子供はきっと知らず知らずのうちに大人の背中をみて育っているのでしょう。 自己が確立されていない、 無責任なのは現代の大人かもしれません。 そのような人間は、 成人(成熟した人)とは到底呼べませんね。 道徳的無反省、責任転嫁(非生産的盲目的批判も責任転嫁のひとつでしょうか?) ・・われわれも自らを教育すべきでしょうか。 ちなみに、 メデイア文化と政治もその国の民度を反映すると言います・・ 2001.4 |
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