2001年9月11日アトランタにて(1)

 以下の文章は0911の事件について感じたことを書き連ねたものです。
その後の現実世界のスピードは遥かに当方の生活のそれを越えたものでした。
それでもなお、
あの一日のこと、さらにはその後のアメリカについて、
アトランタから見た印象をつづることは
決して「遅すぎることはない」と思い留学便りに掲載したいと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1)9月11日

 その朝当方はYerkesでおさるさんの手術をしていた。
すべては順調だった、いつものように。
9時頃だろうか、ラボから電話が入った。
マネージャーのフィリスからだった。
電話が手術室内のインターホンに切り替わった。
「Hi guys,」ボクはアンデイと目を見合わせてニヤッとした。
(血液サンプルの催促だな・・)

フィリスの話はボクには早口のうえに声が割れていて聞き取れなかった。
ただいつもと違う様子だということは十分に感じ取れた。
アンデイの手が止まった。
「Oh Jesus,,」
「何言ってたんだ?」
「World Trade Centerとワシントンが爆破されたらしい。」
ラジオをつけた。
どこもニュースしか流していない。
みな無口になった。
事態が飲み込めない。
情報が二転三転する。
言葉を失ったアメリカ人を見たのは初めてだった。
空気、思考すべてが凍りついたまま手術だけが進んでいく。

昼過ぎにラボに戻った。
漆黒の実験用テーブルにテレビが置かれ、CBSがつけっぱなしになっていた。さしずめ街頭テレビにようだった。
みな見入っていた。
飛行機が2機ハイジャックされワールドトレードセンターに突っ込んだらしい。
アンデイとボクはさらにおさるさんの仕事をつづけた。
中途でアンデイが無言で出ていく。
ボクはひとり仕事を続けた。

遠心の途中でテレビの所に行った。
アンデイに話しかけた、
「どうなってるんだ」
「Commercial airlineが4機ハイジャックされたらしい。
うち2機はワールドトレードセンターに突っ込んだ。
ワールドトレードセンターも崩壊した。
テレビでその瞬間の映像をやっている。」

午後エモリー職員全員に帰宅命令が出された。
エモリーは病院大学施設ともすべて完全封鎖だそうだ。
「オーバーリアクションだよ。アトランタには襲われるものは何もないだろ?」とアンデイ。
細胞分離を終えてまたYerkesにシャトルバスで向かった。
エモリー地区の目抜き通り、
Clifton Roadが片側封鎖されていた。
こちらに入ってくる車の流れはない。
エモリーから出ていく車両のみ通行を許されている。
「CDC(注;Center for Disease Control and Prevention.エモリー構内にある国立感染症センター)
に爆弾テロの脅迫があったのよ。」
とYerkesのエリザベートが教えてくれた。
エモリー封鎖はオーバーリアクションではなかった。

午後4時。
ラボはおろか当方の勤務しているWMRBというリサーチビルデイングには人の気配が全くなくなった。
当方は予定された仕事を残って続けていた。
しかし自分でも、仕事をこなしているだけだということが十分に理解できた。
今までも徹夜仕事の時、ホリデイの時・・ビル内にひとっこひとりいなくなったことはままあった。
しかし、、、今日は空気が凍りついていた。
異様だった。
この時点ではアメリカに対する同情憐れみの念、
また日本人が犠牲になっている可能性には考えが及びもしていなかった。
とにかく事態が飲み込めていない。
ただこの「異様さ」を肌で感じたとき、
なんとはなく「戦争ってこういうものなんだろうか」という思いが頭をよぎっていた。
もちろん、ブッシュが、ラムズフェルドが
「これは新しい戦争だ」
と宣言するのはこの日から数日後のことである。

夜10時過ぎに帰宅しテレビをつけた。
初めてまじまじと映像を見た。
ぞっとした。
背筋が寒くなるとか鳥肌がたつ、というレベルのものではなかった。
この時まさに「戦争」を実感したのである。
それが、このテロ自体のことを戦争だと感じたのか、
それとも今後起こりうる戦争を予期したのか、
今考えても解らない。
ただ、その晩は一睡もできなかった。

 

2)その後のアトランタ、その後のアメリカ

その後の事態の流れはみなさんの方が良く御存知のことと思う。
開戦、爆撃、炭疽菌騒動、情報戦争・・・。
そんななか、
アメリカの日常はどうだったか?
アトランタでの自分の生活からアメリカすべてを推し量ることは出来ない。
ただ自分の肌で感じたことからすると10月に入り仕事が元通りになった、
11月に入りアトランタ全体が元通りになった、
12月に入りメデイアを含めたアメリカが元通りになりつつある・・
といった具合だろうか。

事件後2週間ほどは、職場も通 常の冷静さを欠いていた。
といってもhate crime などのトラブルがあったわけではない。
とにかく落ち着かなかった。
アメリカ全体がざわざわしていたのだと思う。
当方にはアメリカ人の胸の内を完全に理解することなどできるはずもない。
ただ、彼らと分かち合ってきた時空間で起きた惨事には、
痛み、悲しみを共有せずにはいられなかった。
この点、メデイア、私見を問わず日本からは、
アメリカのglobalization、
親イスラエル政策、
「米軍世界警察思想」
に因果関係を求める冷めた論調が事件直後より認められたのは
当方には理解しがたかった。
やはり太平洋のこちらと向こうでは同じ日本人でも事件に対する温度差がある、と感じた。
ただ、この時期ラボの中でもretaliationに対する反論を許さない雰囲気があったことも
付け加えておきたい。

10月に入りラボは全く普段の姿に戻った。
職場でテロについて、
また今後のアメリカの方策について議論されることもめっきり少なくなった。
ただ、開戦、炭疽菌騒動とマスコミはまだ騒々しかったし、
街中、画面にはどこも星条旗が踊っていた。
今思い起こしてみると、
自分のいるラボ、
いわゆる科学者の職場は元来画一的な意見を嫌う傾向があるので、
早期よりnationalisticな雰囲気自体を居心地悪くとらえていたのではないか、
これが街中との微妙な違いに結びついたのではないかと感じている。
もちろん同僚の各家庭内はまた趣を異にするだろうが。
ただ、テレビ映画はまだ、西部劇、SFもの、ホラー、デイズニーだけだった。

11月も半ばを過ぎると街中の星条旗もめっきり減った。
10月末さらに11月初旬にかけて、
北米内出張のため計8回飛行機を利用したが、
いずれもほぼ満員であった。
同僚がインターネットでアフガン関連のニュースをチェックする光景も皆無となった。

11月初旬にNewark(マンハッタン対岸の空港、NYにある3つの空港のひとつ)経由で
当時炭疽菌の巣窟とされていたNew Jerseyの街に行った。
街自体にはテロや炭疽菌騒動の面影はなかった。
仕事で会った人とも話をしたが、
こと炭疽菌に関しては気に留めている様子もなかった。
ただ、現場となったニューヨークだけは違っていた。

Newark空港に着陸体制をとったとき、機内は一瞬静まり返った。
気がつくとほとんどの人がマンハッタンを見つめていた。
当方マンハッタンを見るのは初めてだった。
不幸なことにワールドトレードセンターのある光景を知らない。
が、そんな自分にもなにかただならぬものが感じられた。
隣席の老婦人がぽそっと言った。
「You have to believe, Hah.」

その会議後の夕食で自然と0911の話題になった。
全米各地から人が集まっていたが、
その話題について特別気づかう様子もなかった。
そのうちマンハッタンにオフィスのある婦人が
ハンドバッグからおもむろに2枚の写真を取り出した。
それは炎上するWTCの「生写真」だった。
テーブルから言葉が消えた。

12月に入ると、
アトランタから見たアメリカは全く普通に戻った様に感じられた。
いまだ矛先が鈍いとはいえNY timesでは政府を批判するような記事が復活した。
テレビにも、「ダイハード」「スピード」などのような、
派手な爆破シーンやテロリストとの戦いが見どころの映画が戻ってきた。
実際のところ、当方もCNNやFOXによるアフガン関連のニュースはもう食傷気味だった。
アメリカ自体が、アメリカ市民みなが、
感謝祭そしてクリスマスという素敵な年中行事を例年通りとりおこなうことで、
普段の日常生活を完全に取り戻したいように思えた。
(続く)

 

いつものあとがき

この0911の話は事件直後に書き始めました。
しかしながら、
事実とその後の経過を消化するのに時間がかかったこと、
というよりそれをはるかに越えて現実が
先へ先へとすすんでしまいました。
このため年末年始に再度読み直して大幅に書き直しています。
風化してしまった記憶もあるかもしれません。
今だから思い起こすこともあるかもしれません。
そのへんを覚書のようにつづっていきたいと思います。
 この事件に関しては多くの新聞、メールマガジンを読みました。
共感したものもあればそれはちがうだろと思ったものもあります。
それらがいろんな形で当方の意見や文章に反映されているかもしれないことを付け加えておきます。

2002.2