週刊医学界新聞 医学生・研修医版Vol.13 No.6(‘98.Aug)より転載

ある医局から見た臨床留学

−帝京大学医学部附属市原病院麻酔科−

100年の歴史を誇る米国のインターン、レジデント研修は世界一と評され、今日に至るまで多くの日本人研修医が米国に学んでいる。「週刊医学界新聞 医学生・研修医版」では、米国への臨床医学留学に関心を持つ医学生・研修医のために、米国の臨床研修制度や留学された方たちの体験の紹介を行ってきた。

 本号では、教授以下アメリカで臨床研修(3〜5年)を受けた8名のスタッフを擁する帝京大学医学部附属市原病院(以下、帝京市原)麻酔科を訪ね、積極的に臨床医学留学を奨励し、医局の活性化を図る当医局独自の取り組みを紹介する

なぜ臨床留学に力を入れるのか

臨床留学を支援

 帝京市原麻酔科はユニークな医局である。森田茂穂教授は、当院に赴任して13年目(現在15年目)を迎えるが、自身の米国への臨床留学の経験とそれを基盤にした医学交流の蓄積を背景に、強力に研修医・スタッフの臨床留学を支援してきた。

 「自分よりも優秀な医師を育てたい。そのためには自分がたどってきた条件より、有利な条件を与えなくては」と考える森田氏は、自らが臨床留学をしたときのことを振り返り、「私が行った時も帰ってきた時も様々な制約があり苦労した。若い人にはなるべく制約なく行かせたい」と話す。

 実際に、この医局では米国へ臨床留学するための研修許可書であるECFMG Certificateさえ取得すれば、何年目に留学するか、どこの病院へ行くか、帰国後医局に帰ってくるか来ないか、いつ帰ってくるか等についてはまったく制約をつけない。ただし帰ってくる場合にはいつ帰ってきても言いようにポジションを用意しておくという姿勢だ。現在、当医局には3−5年の臨床留学経験者が8名おり、その全員が希望した施設での臨床留学を行っている。

 一般的には、帰国者をめぐる状況は厳しいという声が聞かれる。特に大学は研究重視のところが多く、臨床能力はなかなか評価されないため、臨床留学のみで帰国してもポジションを得るのは容易なことではない。また質の高いトレーニングを受け、高い臨床能力を身につけて日本に戻ってきても、閉鎖的な日本の医学界の中では、必ずしも力を発揮できないことが指摘されている。

 一方、「医局を飛び出す」ように渡米する人も少なくない。しかし、その場合「帰国してからの帰る場所」を見出すのは困難だといわれている。

 臨床留学を目指すものにとっては、森田氏の考え方のもとに、当医局はきわめて恵まれた環境を整えているといえる。

人との出会い

 なぜ臨床留学に力を入れるのか。森田氏に率直に聞いてみた。

 森田氏が強調する臨床留学のメリットは、「医学的なトレーニング」よりも「さまざまな人との出会い」である。

 「いろいろな人を知る。外から日本を見る。異文化の中で生活してみる。私たちは医師である前に社会の一員なのだから、人間として様々なふれあいを経験すること。実は、これが一番大切です。しかし、そのためには臨床で米国へ行ったほうがいい。なぜなら、米国人と同等の扱いを受けるからです。当然それゆえの厳しさもあるが、その中で本当の友人もできやすい。また、同じことを要求されることによって、彼らの考え方を理解するのも早くなる。臨床留学をするということは、臨床能力をつけるという医学的なトレーニングという意味以上に、目に見えない部分で学ぶところが大きいのです。」

「外」の魅力

 森田氏の言葉を後押しするように、「臨床留学というのはその結果だけではありません」と指摘するのは、同医局の諏訪邦夫教授(現職は帝京大学医学部附属病院麻酔科教授)。諏訪氏は戦後、日本人として初めてマサチューセッツ総合病院(MGH)に臨床留学をしたという臨床医学交流の大先輩である。「そのプロセスやステップそのものが非常に重要だし、また楽しい。そしてその経験こそが人間が成長していく中での肥やしになるのだと思います。学生時代あるいは若い医師が画一的な日本のシステムにリジッドにはまってしまうと、視野が狭くなってしまいがちです。だから、結果はともかく『外』で多彩な経験をしてくる。それだけでも行く価値があると思います」との諏訪氏の言葉には医局の皆が共感を示す。

 スタッフの皆さんにも話をうかがった。

「米国の研修制度は非常に効率のいいトレーニングシステムですから、明らかに臨床能力は向上します。しかし、帰国してから日本の医療制度の中で力を発揮したり、評価されるかどうかはまた別の問題かも知れません。身も蓋もない話ですが、それは個別的な要素を多分に含むからです」と慎重に語るのは市瀬史講師。MGHへ臨床と研究で合わせて5年間留学し、帰国後3年目になる。「どのように留学するか、そして帰ってくるか。これは一般化できない問題なのです。『米国へ行けばみんなこうなる』とも、あるいは『こうならない』ともいえません。個人の能力に依拠するところが大きいからです。しかし、それは誰しも成功の可能性を持っているということの裏返しでもあります。臨床留学の魅力の一面とも言えるでしょう」と指摘する。

 ベス・イスラエル病院での臨床留学から今年の1月に戻ってきたばかりの石黒芳紀講師も「米国に渡ってしまった後は、やはり本人の技量次第だと思います。米国では1年契約ですから、行いが悪かったり、ある程度の能力を発揮できなければドロップアウトしてしまいます。また、何か研究を始めようと思っても、すべて自分でアプローチし、研究計画を立て、それを上司に相談し、交渉を重ねていかなければなりません。着実に成果を上げていかないと更新が許されないという厳しい米国社会のルールは医療の現場でも現存しています」と相槌を打つ。

 「しかし学ぶのは臨床能力ばかりではありません。米国の医療・研究の現場にいる人たちの考え方や生き方、さまざまな場面で必要とされる高尚の能力などに非常に刺激を受けたし、自分としても勉強になりました。それは私にとって、臨床能力の向上以上にありがたいことです」と、石黒氏はまだ印象鮮やかな自己の体験を振り返る。

 その一方、「米国で臨床研修したからといって、直ぐにその成果を日本で実践できるわけではありません」と指摘するのは、シアトルとボストンの小児病院で計5年間の臨床留学を終え、2年前に当医局に戻ってきた上園晶一講師だ。「現在の医療は医師や看護婦、コメディカルの人たちと共同で行うチーム医療ですから、米国で発揮できた実力の一部は陰で支えてくれる人々のおかげです。米国での臨床トレーニングがハイレベルなのは確かですが、それを経験すれば、帰国後すぐにスーパーマンのような働きができるわけではないのです。そのことを忘れてはいけません」と米国のチーム医療のあり方に大いに刺激を受けた様子だ。日本でもとりわけチーム医療の展開に意欲を見せる。

出会いがチャンス生む

 市瀬、石黒、上園の3氏のほかに、後藤隆久助教授がMGHで、照井克生講師(現職埼玉医科大学周産期医療センター部長)がMGHとブリガム&ウィメンズ病院で、中田善規講師がMGHでそれぞれ研修を受けているが、必ずしも臨床だけを重視しているわけではない。「同様に、大学の使命の1つでもある医学研究にも力を入れています。欧米の研究環境は日本に比べて整備されているので、研究を目的に留学をする医局員もいます。新見能成助教授はベイラー大学に、高橋秀則講師はオックスフォード大学にそれぞれ留学し成果を上げています。医局全体としては、臨床と研究のバランスをとるように心がけています」と森田氏は強調する。

 留学から帰国しても彼らの医学交流は終わらない。今年の秋には上園氏がスタンフォード大学へ(現職東京女子医科大学麻酔科助教授)、市瀬氏がハーバード大学へいずれも助教授として赴任する。「2人はヘッドハンティングされたのです。2人とも医局を出てしまうのは確かに痛いが、名誉なことだし、よい経験になると思いますから、積極的に話を進めるようにとアドバイスしました」と森田氏。自らが強調する「臨床留学における人との出会い」が2人にチャンスをもたらした形だ。

 「いつでも行けて帰って来れるような『風通しのよさ』が大切。交流とは、リジッドにやったら交流にはならない」とは森田氏の持論である。

多様性が財産

二足の草鞋

 森田氏流の「制約をつけない」手法は徹底している。ここでは個々の研修医・スタッフのモチベーションが最重視される。

 2年前に帰国した中田氏の経歴は特にユニークだ。中田氏はMGHへ3年間の臨床研修を終えた後、2年間、エール大学のビジネススクールで学び、MBA(経営学修士)を取得。帰国後はさらに東大経済学部へ学士入学をし、現在は帝京市原のスタッフとして臨床を続けながら、東大で医療経済学を専門に経済畑での学究にいそしむ。いわば二足の草鞋を履いている。

 「そんなことが可能なのですか?」中田氏は「周りの人の協力があってのもの」と答えるが、森田氏をはじめ当医局の自由な気風がそれを可能にしている。

 「若い人には多様性を持ってほしいと思っています。医師としても一人前になった上で、かつプロフェッショナルなものを別に持つということは、本人のためにもいいし、医学界のためにもいい。世界的な規制緩和の流れの中で、今日までの閉鎖的な医学界のやり方では、古い体制が崩壊した後の社会で競争していけるだけの人材を育成していくことは困難です。こういう医師になるべきだとか、何科の医師になれだとか、ある1つのモデルへ皆を近づけようとするのは、社会的な損失です。むしろ人間それぞれ才能も趣味も考え方も違うのだから、それが伸びるようにしたほうがいいのです」と語る森田氏は、留学前から医療経済に関心を抱いていた中田氏に対して、そのモチベーションを活かすように示唆を与えてきたという。

 また「さまざまな得意分野や志向を持っている人材を集め、育てるということが、組織としての医局の強さにもなります。海外で研鑚を積み、高い能力や特性を身につけて帰ってきても、日本の閉鎖的な社会の中では孤立してしまいがちです。『一匹狼』ではやれることに限界があります。それらの人が集い、チームを組んでこそ、本来の力を発揮できるのではないでしょうか」と医局のあり方を考える。

プリンシプル

─ なぜ臨床留学の後にMBAをとったのですか。

 「臨床をやっているときに、そのあり方が日米ではかなり違いがあり、その差異の根底にあるものとは何かということに興味を持った。その中で、自然と医療体制について考えるようになり、ビジネスの勉強もしてみようと思った。こんなことは普通の医局では考えられないが、私たちの医局には『多様性を大切にする』というプリンシプル(原理)があるので、それが可能でした」と中田氏は振り返る。

─ 経済学を研究していく上で、日米の臨床を知っていることはどのように役立つのですか。

「日米の医療システムの違いが日常臨床に与えている影響、それが見えると思います。例えば、議会で何か新しいことが決まれば、それが施行されるその日からやり方が完全に変わってしまうのが米国です。実は米国でも、現場を離れたところでさまざまなことが決定され、それが日常の診療に反映されるという現実があり、患者や医療従事者が必ずしも恩恵を被っていないということは数多くあります。その狭間のさまざまな確執を、医療現場の側からではあるけれども見ることができた。これは大きな経験だと思っています。私が医療経済を学ぼうと決心したのは1993−94年あたりで、ちょうどクリントン政権が誕生したときです。その時点でも、日本の医療システム自体が改革の必要性をもっていると感じていたし、いずれ訪れる大変革を前に自分なりの準備をしたいと思ったのです」中田氏はこう答える。

扉のない医局

 「医学というのは本来、社会性を持っている。ところが医師は、医師になった途端に特別な意識をもってしまって『もう僕たちは失業しないんだ』などと思い込み、社会の状況から遊離してしまう。とりあえず与えられた枠の中に安住してしまったのでは、いつまでたっても医療はよくならない。医療がより社会的な貢献をしていくためには、医療者自身が幅広い視点を持つことが大切で、既存のやり方にとらわれない新しい挑戦をしていくべきです。そのためには各々の責任に基づく『自由度』を確保することが重要なのです。今後も、臨床であれ研究であれ、本人の希望に添った奉効で積極的に海外と交流できるように、教授を先頭に医局全体でサポートしていきます」と森田氏の意欲は衰えを知らない。

医局のあり方を問う

帝京市原麻酔科医局に「扉」はない。人が通り抜けていくために常に開かれているからだ。

 多彩な人材を育てる医局の根本には「個々のモチベーションを大切にする」という原点がある。しかし、それは同時に閉じた1つの地域、施設、医局でしか通用しないような能力ではなく、各々の努力と責任で他流試合をすることにより、どこでも通用するような能力を身につけていくための条件でもある。

 「経験だけでやっている社会では、議論が成り立たず、エビデンスも求められない。『うちはこれでやっている』で片づいてしまう。これでは、いつまで経っても医療の質の向上はない。医療も世界経済の動きと同じで、ローカルスタンダードでは通用しない、グローバルスタンダードが求められる時代がすぐにやってくる」と将来を見据える森田氏の言葉には力がこもる。

 あるべき姿を与えるのではなく、研修医・スタッフのそれぞれが、自分であるべき姿を見いだし、そこへ向かっていく。指導する立場の人間がすることは、彼らが自ら成長するために、有利な環境を整えるための支援をするだけだ。医局のあり方、医療のあり方を問う静かな実験が、帝京市原の一室で続けられている。   (おわり)


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